東京展ギャラリートーク⑩ 市澤静山先生

市澤静山先生(漢字) 8月30日、国立新美術館

執行役員以上の先生方の漢字、かな作品を中心に解説されました。

 

 

市澤先生はトーク冒頭、手書き文字と、小学校などで子どもたちに指導する教科書の活字体との違いについて解説しました。

新元号「令和」が発表されたあと、学校の先生が児童・生徒から「令」の字について「テレビに映った字と(学校で習う字が)違う」と言われる事態が起きたことを挙げ、「どちらが正しいかと言えば、両方正しい。字というものは一通りということはあり得ず、いろいろな字があることを認識してほしい」と述べました。

また、筆順にも複数あることを説明し、「小学校の先生は、子どもたちが書く字についておおらかであってほしいと思う。教えた通りに書かなくても、むやみに否定しないでほしい」と望みました。

 

尾崎邑鵬先生(漢字)の作品「汧殹沔々」(石鼓文)について、市澤先生は「尾崎先生は1924年生まれ。非常に激しく書かれているが、腕力があれば書けるというものではない。むしろ大事なのは気です」と指摘。「筆先が紙に食いついていますが、筆の切っ先が働いてこそ、自分の精神が盛り込まれた強い線が書けるんです」と述べました。

 

古谷蒼韻先生(漢字)の遺作「飲中八仙歌」(杜甫)は「流れが非常に自然な動きで、次から次へと動いていくのが分かります。速いかと思えば、かなりゆっくり書かれた部分もあり、墨もあまり付けないで、できるだけ保たせて書いている。手の動きが非常に安定しています」と絶妙の運筆を指摘しました。

 

かな作品についても一つ一つ解説。井茂圭洞先生(かな)の作品「無常」(万葉集)では、「筆の先がよく利いているのが分かります。紙に筆先が食いついている。他のかな作家と比べると分かるが、筆を紙にこする度合いが違う。また、かなはどちらかと言うと曲線が多いが、まっすぐな線が多い」と、漢字書家の立場からの視点も交えて特色を挙げました。

 

市澤静山先生の作品(右上)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年9月11日(水)11:30

東京展ギャラリートーク⑨ 師田久子先生

師田久子先生(かな) 8月29日、国立新美術館
執行役員以上の先生方のかな作品、読売準大賞のかな作品を中心に解説されました。

 

師田先生は冒頭、「一般に書、特にかな書は『読めない』ことがまず鑑賞のウィークポイント。『文字は読むもの』という先入観を少し外して、作品のいろいろな表現や表情を、見て、感じることが大切だと思います」と前置きしました。その上で「筆の運び方には遅い人も、早く書く人もいて(各人の)リズムがある。一番大切なのは呼吸で、どういうふうに持っていくかで作品の良し悪しが決まる。先生方がどのように書かれたのかを想像し、その流れを自分の中で見ていくことで、自分に合う作品が出てくるのではないかと思います」と鑑賞の姿勢をアドバイスしました。

 

池田桂鳳先生の「さをしか」(万葉集)は「簡素美を出した作品。放ち書きで、文字の形もあまり作らず、自然な形で書いている。淡墨で墨量も少ない中で立体感を持たせている。落款も作品の雰囲気に合うように大和古印風の印を使い、全体をやわらかく素朴な感じにしています」と述べました。

 

井茂圭洞先生の「無常」(万葉集)は、「井茂先生が師事された深山龍洞先生は『矛盾抵抗』を唱えていらっしゃいました。常識的に調和させるのではなく、異質な要素による不協和音から新しい調和(大調和)を導き出すという理念だそうです。井茂先生の作品も、非常に強いところ、余白といった不協和音を調和させる難しい作品のつくり方を基調としている。綿密な計算をした上で、3行目から墨を入れて盛り上げ、大きな余白を取り、そしていつも必ず大きな文字を入れていらっしゃる」と細かく説明しました。

また、「非常にゆっくり書かれるので、紙に食いついていくような線質になっている。先生の作品には必ず『し』という字がありますが、私たちがパッと書いてしまうところをとてもゆっくり書かれる。途中でちょっと屈折していますね」と考え抜かれた作品の味わいを指摘しました。

 

榎倉香邨先生の作品「無限の岸」(若山牧水)は、「情感を大切にしている。芯にとても色気があると感じます」。また「音楽的」と指摘し、「榎倉先生は、リズムを感じ、それを音の世界として書かなければいけないとおっしゃっています。かといって、うるさくてはいけない。静けさ、激しさ、やわらかさ、鋭さ・・。それから呼吸を長く引っ張り、音色を違えてはいけないともおっしゃっています」と説明しました。

さらに「先生はとてもおしゃれなんです。美的なものすべてが(作品に)入ってきますから、皆さんもおしゃれをして感覚を養いましょう」と述べました。

 

 

黒田賢一先生の「梅の花」(万葉集)は、「直線を主軸にしてリズムを出している。白と黒がはっきりして、粘りのある線質だけど歯切れのいい字」と説明。また、「昨年、東京展の席上揮毫で私も初めて黒田先生が揮毫されるのを見ましたが、短い筆で、大きい字を体全体を使って書かれていた。かなの原点は漢字にあることを意識して、強い線で書く。だから遠くから見ても強さと華やかさが表れています」と評しました。
土橋靖子先生の「天の河」(万葉集)は「ふわっとしたソフトムード的なものを入れているけれど、そうかと思うと線の中に強さがずっと入っていっている。また、ゆっくり書くことで一字一字の中に墨の変化のリズムがある。やわらかくするために墨色を落として淡くし、ムードを出しているところも先生の持ち味だと思います」と指摘。「(最初に)大きな余白がありますが、(その左の)行頭の漢字を強く書くことで余白が生きています」と述べました。

 

読売準大賞のかな作品、かな系調和体作品も解説し、河合鷹山先生(かな)の「ほととぎす」(万葉集)は「真ん中に山を作り、墨色の変化もよく、リズムがあって一つのドラマを感じます」。豊原睦子先生(かな)の「山鳩」は「途中に大きい字を入れることで、作品の変化を出している。線がとても強く、大きい字と小さい字の組み合わせによって、全体的なリズムを感じます」と評しました。
橋本小琴先生(かな)の「こぞの夏」(古今和歌集)は「行間の白がきれいに映っている。墨を入れるとどうしても重たくなりますが、筆の先を立たせてうまく作品をつくっています。最後をどうまとめるかみんな悩みますが、その前に墨をしっかり入れて、墨がないままで終わっている。白文の印を押してキュッと締めていますが、ここが朱文だったら弱い感じがすると思います」と落款印を含めた構成美を指摘しました。

馬場紀行先生(調和体)の「初日の出」(自詠)は「強さがあるから白が非常にきれいに見えます。筆を回転したり、突いたりすることで強弱がよく表れています」と評しました。

 

最後に師田先生は「『目習い』という言葉がありますが、自分はこういうものが好き、合っている、と思う作品をよく見て客観的なものをキャッチする。そして、せっかくいい作品を見たら自分の作品に生かさなければ。『目習い』『手習い』の二つが大切です」と述べました。さらに「書でなくてもいいから美しいものを見て、悩んで、反省して。その繰り返しで私も少しずつ書けるようになった。皆さんも一緒にやりましょう」と呼びかけました。

 

 

 

2019年9月11日(水)11:20

東京展ギャラリートーク⑧ 大澤城山先生

■大澤城山先生(漢字) 8月29日、東京都美術館
執行役員以上の先生方の調和体作品を中心に解説されました。

 

 

大澤先生は「それぞれの先生が専門とする漢字やかなとは違う調和体作品をどのように書いておられるか。同じ漢字作家でも、得意とする書体による違いも見どころです」と指摘しました。

また、調和体と漢字を半々くらいで出品している自身の立場から(昨年は調和体、今年は漢字の作品を出品)、「調和体の楽しみ方の一つは、作家がどのような言葉を選び、その言葉を通して何を表現したいのかだと思う。私は調和体の方が言葉を選ぶのにエネルギーを使います。共感し、感動して、自分の思いを託せるような言葉を見つけるのに苦労する。自分で言葉を作るにしても、何をアピールしたいのか、メッセージ性は何なのかを考えます」と述べました。

 

井茂圭洞先生(かな)の作品は、文部省唱歌「朧月夜」の一番「菜の花畠に 入日薄れ」。大澤先生は「日本の原風景を感じさせる歌。渇筆や潤筆を効果的に配し、技術的にも視覚的にも見ごたえがある。この全体感ですね。私の住む松本(長野県)からは北アルプスの山並みが望まれ、麓には安曇野の田園風景が広がるが、私の持つイメージと一致します。抒情的な作品ですばらしい」と述べました。
また、自分も2009年、日本の在外公館に書作品を贈る全国書美術振興会の事業で、同じ長野県出身の髙野辰之が作詞したこの歌詞を選んだことがあり、「アフリカの在タンザニア日本大使館に飾らせていただいています。まだ見たことはありませんけど」とユーモアを交えて語りました。

 

95歳の尾崎邑鵬先生(漢字)は、大野修作『書画綴英』の一節「王鐸と傅山」を縦の4行書きにした作品。「縦の作品を書かれるのは体力的にも大変ではないかと思うが、一文字目から最後まで気脈から何から貫通させて書くのは、体力はもちろん、気力が充実していないと書けない。細いけどピアノ線のようにキリっとした強い線なので、黒の面積はそれほど多くないが、決して白には負けていない。そして行間を空け、明るい作品に仕上げておられる」と評しました。

 

梅原清山先生(漢字)も97歳にして気力のみなぎる作品。「強靭な線で大きめの楷書を多く発表されるが、調和体も大字の楷書で鍛えた、石に刃物で刻んだようなキリっとした線で書いておられる」と述べました。
大澤先生は「漢字、かなの混合度合いが悪くないのが第一」という梅原先生の自作コメントを引用した上で、「(書く言葉を選んで)これでいいと思っても、今度は漢字とひらがなのバランスの問題が出てくる。画数が多くて密度の濃い部分が出せる字と、少ない文字のバランスが難しい。縦に書いてみたり横に書いてみたりするが、歌ならサビに当たる所にいい文字が来てくれればいいけれど、そうとも限りません」と制作の苦心を述べました。

 

星弘道先生(漢字)の「ジョン・ラボックの語」は、「漢字の先生らしく、紙面全体を揃え、行をしっかり立てて行間を空けるという表現。『藝』という画数の多い文字を(中央に)配置したことで、大きな盛り上がりを作り、左右の余白に響かせている」。また、「字数が少ないので、これだけの紙面を埋めるには線質が強くなければならない」と指摘し、細身になりがちなひらがなの「よ」「さ」の横棒を長くして、幅を広げて見せようとした意識が感じられる点などの工夫を挙げました。

 

 

 

2019年9月11日(水)11:10

東京展ギャラリートーク⑦ 角元正燦先生

角元正燦先生(漢字) 8月28日、国立新美術館

執行役員以上の先生方の作品を中心に解説されました。

 

 

角元先生は、樽本樹邨先生が紙の右半分に「阮簡曠達」の四文字を大きく揮毫し、左半分の下方に小さな字で謂れを記した作品について、「(左の)上が空いているので、(小字の部分が)画賛のように見えるという方もいます」と指摘。「この空間を皆さんはどう思うか、それぞれに感じ取ってください。こういう表現の自由もあるということです」と述べました。

 

さらに付言して、「こちらの文章は諸橋の大漢和(諸橋轍次著『大漢和辞典』)に載っています」と紹介し、「僕が神田を歩いていたら、古本屋で全13巻(初版)の大漢和が1万円(の安値)で売っていた。日本の文化はどうなっているのかと思いました」と、活字文化への敬意を失いつつある現状を憂えました。

 

星弘道先生の「遊魂」(易経)は「筆は純羊毛の長鋒。特徴は『遊』の縦棒で、この一本の線が作品の命になっている」と大字を貫く直線の強さを指摘しました。また、「青い紙は特別に作ってもらったのでしょう。本来の草木染めはすごく薄い色なんです」と淡い青色に染められた紙の美しさも見どころに挙げました。

 

かな書家の作品も一点ずつ解説し、万葉集を題材にした池田桂鳳先生の作品「さをしか」では3行目の「月」の文字に注目。「大きく書いてありますが、墨を付けるとあまりにも目立つから(あえて)かすれさせたのだと思います」「穂の短い、やわらかい羊毛の筆で書いている」と指摘し、「素朴、枯淡な境地に憧れを抱いています」(池田先生の自作コメント)という作者の思いを紹介しました。

 

黒田賢一先生の「梅の花」(万葉集)は「力強いかなです。穂の短い、堅い羊毛の筆で書いている」と紹介。墨継ぎによる潤渇の変化がありながらも力強さが一貫している点を挙げ、「皆さんはどうしても墨が付いた所を強く書き、字が太くなる」と指摘し、「反対に、墨が無くても太さが出るように筆を立てて書くと強さが出ます」とアドバイスしました。

 

黒田賢一先生(右)、星弘道先生(左)の作品

 

 

最後に自作を解説=写真=。題材は「詞(ツー)」という中国の韻文の一種で、「光緒時代(中国・清代、光緒帝の時代)の古い紙に、墨は古墨『筏墨』(いかだずみ)で書きました」と、文様が施された赤い紙と、揮毫した文字の周りに独特な滲みが広がる墨について明かしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年9月11日(水)11:00

東京展終了_11日から関西展

8月23日から国立新美術館と東京都美術館の2会場で開催した36回展の「東京展」が9月1日、終了しました。

 

両会場の合計入場者数は、35,695人でした。

 

全国から多くの方にご来場いただきましてありがとうございました。

 

9月11日からは、関西展です。

 

詳しくはこちら

2019年9月10日(火)13:00

東京展ギャラリートーク⑥ 齊藤紫香先生

齊藤紫香先生(かな) 8月28日、東京都美術館

執行役員以上の先生方の調和体作品を中心に解説されました。

 

今回展では、過去の東京展における席上揮毫・篆刻会の映像が会場の一角で初めて上映され、来場者の大変好評でした。齊藤先生のトーク開始直前には、ちょうど先生が2015年の第32回展で揮毫した時の映像が流れ、多くの来場者が熱心に鑑賞しました。

 

 

齊藤先生はそれを受けて、「(映像を見た方から)『ゆっくりお書きになるんですね』と言われましたが、日頃から心がけて、はやる気持ちを抑えながらゆっくり書こうという思いで書いています。湿るような紙はそんなにゆっくり書いていられませんが、加工紙のようなものに書く時は、なるべくしっかりと(紙に墨が)食い込むように書くよう努力しています」と説明しました。

 

 

齊藤先生は「調和体は、考えていること、関心あることがそのまま出るもの。先生方が今どういうことをお考えになっていらっしゃるのか、どういうことに興味を持っていらっしゃるのかを鑑みることができる。私はそれも楽しみに見させていただいています」と前置きして、作品を解説しました。

 

 

 

 

 

師田久子先生の「海」の表現(冒頭部分)

師田久子先生の作品は、小川未明の詩「海と太陽」の一節。「『海』という文字が6回、『太陽』が3回出てきますが、何度も出てくる文字をいかに処理するかが表現者として悩むところ」と述べ、字に変化をつけたり、空間の取り方を工夫したりしていることを説明しました。

 

 

 

 

 

 

齊藤先生は「角元正燦先生(漢字)に調和体の書き方についてお尋ねした時に、『十七帖』(王義之)や『書譜』(孫過庭)の草書体を混ぜるような気持ちで、漢字に仮名が負けないように書いているとおっしゃられた。私は、かな作家として『調和体を書く時は漢字を少し大きく、かなは小さく書くとまとまりますよ』と指導していますが、漢字の先生方がそんな考え方をお持ちだと知って勉強になった。自分も何かの時はそのように挑戦してみたい」と述べました。

一方で、同じ漢字書家の星弘道先生は「どちらかと言うとかなを小さめに書き、全体的に文字を少し左に傾けて行間をすっきりまとめていらっしゃる」と表現方法の違いを説明しました。

 

高木厚人先生の作品は、ギャラリートークで何人もの先生方が、かな作品の雰囲気で書かれた調和体作品として注目してきました。齊藤先生は「変体仮名を使わなくても、いかにかな作品と見えるかという挑戦ではないかと思います」との見方を述べました。

 

黒田賢一先生の「磨すれども磷(うすろ)がず」(論語)は、「『磨』の一文字を1行目に、『すれども』を2行目に持ってきた構成が斬新。かな書家でも強い線が引ける黒田先生でなければ表現できないことかなと思います」と指摘しました。

 

榎倉香邨先生(右)、井茂圭洞先生(左)の作品

榎倉香邨先生が若山牧水の短歌を書いた作品は「みずみずしい線。牧水にほれ込み、ライフワークにされている。一本筋が通り、突き詰めていらっしゃる生き方をも勉強させていただいています」と述べました。

 

 

 

 

井茂圭洞先生は「(かな作品における)お考えがそのまま調和体にも反映していらっしゃいます。エネルギーを溜めて見せ場を作り、深くてエネルギッシュな作品」。池田桂鳳先生は「京都の先生で、はんなり、優しい。散らし書きも自然に流れておだやか。だけどよく見ると、山にもいろいろな形があり、ご自分の中でしっかりイメージを作ってお書きになっている」と述べました。

 

土橋先生の作品は童謡詩人・金子みすゞの詩。齊藤先生は「蜂はお花の中に お花はお庭の中に・・」と、同じ「中に」という言葉が何度も出てくることを挙げ、「細めに書いたり、草書体で書いたり、太め、小さくと、すごく考えているのにそれをあからさまにせず、とても自然な書き方をされている」と述べました。また、今年の「日本の書展」(全国書美術振興会主催)に出品した土橋先生の作品も「さくら」という言葉が繰り返される山頭火の句「さくらさくら咲く桜ちるさくら」だったことを挙げ、「あえて同じ言葉が出てくる題材を選び、ご自分の限界に進んで挑戦なさっている」と感想を述べました。

 

 

2019年9月10日(火)10:05

東京展ギャラリートーク⑤ 大橋洋之先生

大橋洋之先生(漢字) 8月27日、東京都美術館

執行役員以上の先生方の調和体作品を中心に解説されました。

 

 

大橋先生は冒頭、調和体について解説。「抽象絵画などの美術と違い、書は文字が書かれているために『読もうとしても読めない』と素通りされてしまう。読めるに越したことはないが、書から発する”気”のようなものを感じていただければいい。たとえば山に登って素晴らしい景色に感動した時、あまり理由というものはない。分析していくと空気が澄んでいるとか、雲海が美しいとか、いろいろな理由が分かってくるが、見た瞬間の感動が一番かなと思う。それと同じく書も、自分が持っているフィルターやオブラートみたいなものを外し、ピュアな心で向かっていただければ、力強さ、あたたかさ、流動感などが感じ取れるのではないか」と述べました。

 

 

具体的な鑑賞ポイントとしてまず挙げたのは、額の形式の違い。縦作品、横作品、四角い作品によって、見る人の目の動きも変わり、書き手の先生方はそれも意識して揮毫していることを指摘しました。また、表具や落款に絞って見ることもすすめ、落款の入れ方、落款印の押し方について「終わりよければすべて良しではありませんが、先生方の落款の入れ方は抜群。落款に続く印の大きさや、捺す間隔、遊印や関防印が捺されているかなども見どころ」と続けました。

 

その上で、「ここには日本を代表する先生方の書が一堂に並んでいるが、類型作というものがない。それほど作品に個性が表れている」と一つ一つ解説しました。

 

 

市澤静山先生(右)、角元正燦先生(左)の作品

市澤静山先生の二行書きの作品は、「先生に直接お聞きしたところ、平仮名が弱くならないよう、漢字に負けないように書いたとおっしゃっていました」。角元正燦先生の自作の言葉「台風の眼の中で鳴く油蝉」は、「先生は徳島のお生まれで、子供の頃に見た漁師町の原風景だそうです」と、調和体作品に自分の言葉を書いた一例として紹介しました。

 

 

 

 

 

 

髙木聖雨先生の作品は、良寛の言葉「生涯蕭灑たり破家の風」。大橋先生は中央の「た」に注目し、「平仮名の『た』は、もともと漢字の『太』を字母としている。草書の『た』を書くようなイメージで、漢字とうまく調和させている」と指摘しました。「読売書法会が提唱する調和体は、品格と格調をもって漢字と平仮名をいかに調和させるかにかかってくる」と説明。漢字と平仮名の一方を極端に大きく書くようなことはせず、両者をほぼ同格に扱っている点を特徴に挙げました。

 

 

髙木聖雨先生(右)、星弘道先生(左)の作品

星弘道先生は「布海苔牋」という加工紙にジョン・ラボック(イギリスの銀行家、著述家)の言葉「太陽が花を彩るように藝術はさまざまな色に人生をかざる」を揮毫した作品。「墨が入りにくい為、線の表情を、筆圧の変化を意識しながら書いてみた作品です」という星先生のコメントを紹介しました。

 

 

 

 

 

大橋先生の師である新井光風先生の作品は、今世紀に入って発見された秦の始皇帝時代の「里耶秦簡」(りやしんかん)の肉筆文字に草書的な文字を見いだした驚きを書いた自作の言葉。「新井先生は中国で陸続と発見されている木簡、竹簡の肉筆文字を研究してこられた。秦の時代には草書がないと言われてきたが、それが発見された驚きを書かれている」と解説しました。

 

 

尾崎邑鵬先生(右)、梅原清山先生(左)の作品

尾崎邑鵬先生、梅原清山先生は、90代半ばの年齢を感じさせない迫力ある作品。「みずみずしい力強さ。若々しく、躍動感がある。感服するしかない作品です」と述べました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年9月10日(火)10:00

東京展ギャラリートーク④ 牛窪梧十先生

牛窪梧十先生(漢字) 8月26日、国立新美術館
執行役員以上の先生方の漢字作品を中心に解説されました。

 

牛窪先生は、古谷蒼韻先生の遺作「飲中八仙歌」(杜甫)が四枚の細長い紙に横展開で書かれていることについて、「額装になっているが、巻子の感覚で書いていらっしゃるのだと思う」と説明。「古谷先生の字の構え方は、重心が低いものが多く、ずっしり安定して見える」と特色を述べ、「1行に一文字、三文字と字数の変化もさまざまで、点(、)の(配置の)効果にしゃれっ気、遊び心が如実に出ている。普段の習練を積み重ねた上で、悠々たる境地で楽しみながら書かれているように見えます」と自在な筆運びから受ける印象を語りました。

 

尾崎邑鵬先生の縦作品「汧殹沔々」は、「汧」は篆書の字形、「殹」は楷書、「沔」は草書と書き分けられており、「破体書として、さり気なく四文字をまとめておられる」と指摘。また、文字数に対して紙面の幅が広いため、「上の三文字とも、偏と旁の間にたっぷり白を取って、懐の深さで紙面をおさえている。また、上の三文字とも最後に派手な線がある。それぞれの字の見せどころであり、見どころになっています」と造形上の工夫に注目しました。

 

 

樽本樹邨先生(漢字)は右に「阮簡曠達」の四文字を大きく揮毫し、左に小さな字で謂れを記した作品=写真=。左の上半分に大きな空間が広がり、その大胆なバランスの取り方が開幕早々から来場者の注目を集めました。牛窪先生は紙からはみ出さんばかりに書かれた「阮」「達」の力強さを挙げ、「曠達(心が広く物事にこだわらない)という言葉の意味と絡めて表現されたのだと思う」と述べました。

 

 

牛窪先生は、金文を主に書いている自身の立場から「造形的な狙いをまずしっかり決める。全体をどうまとめるか、造形上の工夫がしっかり頭の中にイメージとしていないとうまくいかない」とアドバイス。髙木聖雨先生(漢字)の作品「千變萬化」について、「『變』『萬』という複雑な字が真ん中に、単純な字が左右に来る。文字の平均化を図る考え方もあるが、ここは逆に重いものは重く、単純なものは単純に書いて変化を持たせている」と配置の計算を指摘し、「金文だが、行草のようなタッチも入っている。多様な筆遣いで現代の息吹を出そうとしたもの」と解説しました。

 

最後に自作を解説。「二尺×八尺の紙に、金文で40字あまりを3行で収める書き方は、今では皆さんやっている。昔を振り返ってみると、金文でそういう形式を“開拓”したのは私なのかな?と思います」と述べました。題材は、諸葛孔明の廟所に柏の木が厳かに繁った情景を詠んだ杜甫の詩。牛窪先生は3行書きの字列に「3本の木が厳かに立っているさまを書くイメージが少しありました」と説明しました。

 

牛窪梧十先生の作品(左)。右は角元正燦先生の作品

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年9月2日(月)17:15

東京展ギャラリートーク③ 湯澤聡先生

湯澤聡先生(かな) 8月26日、東京都美術館
執行役員以上の先生方の調和体作品を中心に解説されました。

 

湯澤先生は、漢字かな交じり書である調和体の成り立ちを説明し、「ある程度読めること、接しやすいことが一つの楽しみ」と指摘しました。しかし「読めること、読めないことが理解を左右するかと言うとそうではなく、見た印象から『柔らかく優しい雰囲気だな』『力強くていいな』と感じることでもいいと思います。私は美術館の学芸員をしていた時、『抽象絵画はよく分からない。どう見たらいいのですか?』と言われましたが、何かしら画面から感じるものを捉えれば十分だし、書もそのように見ていただきたいと思います」と述べました。

 

 

その上で、それぞれの作品を「線」の特徴に着目して鑑賞することをすすめ、「人によって心臓の鼓動や呼吸、歩くスピードも違うように、100人いれば100の種類の線がある。一枚の作品の中でも、太さ、スピード、墨量によっても線の質が違ってきます」と見どころを挙げました。また、線の流れが同時に時間の経過を感じさせることも、かな作品の魅力の一つであると説明しました。

 

 

 

湯澤先生は、井茂圭洞先生(かな)の作品「朧月夜」の最後尾が「夕月かかりて」「匂い淡」「し」と3行に配置され、最終行に「し」一文字だけが長く引き延ばして書かれている表現について、「この『し』に四文字、五文字を書くのと同じくらいの中身を感じます。途中でスピードが違ったりして、縦の線一本の中に味わいが集約されている。白隠(奇想の禅画で知られた江戸時代の禅僧)に一本の線を引いただけの禅画がありますが、井茂先生の作品も縦の線一本がすごくものを言っている。私も縦一本の線だけで、自分の表現したいものが書き表せたら──と思います」と述べました。

 

また、漢字の先生方の調和体作品も一つ一つ解説し、「私はかな作家ですが、漢字の先生方の線も参考にしています。重厚な線、渇筆、墨量の配置、グッと(紙に)入り込んだ線など、自分の好きな線があったら『今度マネしてみよう』と思いながら見ています」と、漢字作品からも常に多くを学んでいることを説明しました。

 

湯澤先生は「ここに並んだ先生方の漢字の作品、かなの作品も見ると、『こういう線を調和体の作品にも使ったのだな』と納得することができる。漢字、かなの古典から学んだ線や造形、ご自身が持っている表現から調和体作品を書かれていることが分かります」と述べ、執行役員以上の先生方の第1、第2作品を比較しながら鑑賞することをすすめました。

 

 

2019年9月2日(月)17:10

東京展ギャラリートーク② 中村伸夫先生

中村伸夫先生(漢字) 8月23日、国立新美術館

執行役員以上の先生方の漢字作品を中心に解説されました。

 

 

中村先生が最初に紹介したのは、昨年8月に亡くなった古谷蒼韻先生(漢字)の遺作「飲中八仙歌」(杜甫)=写真=。「杜甫や李白の時代の『狂草』を半世紀以上にわたって学び、自分の手に入ったものとして自在に書かれたすばらしい作品」と述べました。

 

また、「私は北京に2年間留学したことがありますが、古谷先生に何年か前にお会いした時に書の将来を心配され、『もう一回、正しい中国の書の勉強の仕方を日本の書道界に吹き込まなければならない』と言われ、帰りの新幹線の中で私なりに期するところがありました」と振り返りました。

 

 

 

井茂圭洞先生(かな)が万葉集の歌を書かれた作品は、「白い紙に一本線を引くだけで意味を持ってくるが、その線をさまざまに工夫して万葉集を書かれている。同じ筆遣いがあまりないし、墨の量も違う。直球だけでなく、スライダーやフォークボールみたいな線もいっぱい出てきて、見どころ満載の作品」と述べました。
さらに、清代の鄧石如が「白を計りて黒に当てる」と述べた言葉を引き、「白によって一本の黒い線が生かされる。井茂先生は余白を『要白』とおっしゃられているが、必要な白を自分の表現の中で味方につけている」と評しました。

 

 

尾崎邑鵬先生(漢字)の「汧殹沔々」(石鼓文)は大字の縦作品。中村先生は「縦長の書の作品は、実はそんなに古いものではない。掛け軸の存在が分かっているのは南宋の終わり頃で、流行は元以降とされている」と解説し、「本来は篆書である字(石鼓文)を、行書的、あるいは楷書的な、そして一部に篆書も使って、なんとも自由な発想で作品をお書きになっている。大河に水が滔々と流れているイメージを大事にして、勇壮な表現で書かれたのだろう」と感嘆しました。

 

最後に中村先生は、北宋の書家・米芾の詩「寄薛郎中紹彭」の一節を読み上げました。「已矣此生為此困 有口能談手不随 誰云存心乃筆到 天工自是秘精微」(やんぬるかなこの生。これがために苦しむ。誰か言う、心を存すればすなわち筆到ると。天工おのずからこれ精微を秘す)という詩句で、「書を論ずることはたやすいが、書く手はその通りにいかない」という意味。中村先生は「私が説明したような理屈より、皆さん一人一人が筆を持って書くことの方に真実があります」と締めくくりました。

 

自作(左下)を解説する中村先生

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年9月2日(月)17:05