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「浅見錦龍展」成田山書道美術館で開催中
日展や読売書法展で活躍し、2015年に92歳で死去した浅見錦龍先生の回顧展が、成田山書道美術館(千葉県成田市)で10月20日まで開かれています。日展出品作、毎日書道展準大賞作をはじめ、良寛詩や蘭亭序などの大作、臨書、絵画、自用印まで一堂に紹介。また、千葉県書道協会の会長として千葉の書道界隆盛に尽力した業績を記念して、千葉県書道協会役員展も併催されています。
10月6日には、浅見先生が率いた書星会の宮負丁香理事長、伊場英白副理事長、小原天簫、飛田冲曠の4先生による座談会も開かれ、師との出会いや厳しかった指導ぶり、書風について語りました。
宮負先生は「大学1年の時に先生の所へ連れて行ってもらったが、ちょうどその年に浅見先生が日展で菊華賞(「良寛の詩」1968年)を受賞された。羲之系のすばらしい作品で、いまだに目に焼き付いている。いま生誕100年の展覧会を企画しているが、ぜひ作品を収蔵している千葉県立美術館からお借りして展示したい」と述べました。
小学5年から師事した⼩原先生は、浅見先生が子どもたちにも「千葉県小中高校書き初め展覧会」など5つの書展に出品させ、「大変高いレベルの指導をされていた。賞をいただいた時は、眼鏡の奥の目を細めて笑ってほめて下さった」と振り返りました。
学生の弟子には徹底して臨書をさせたという指導法について、宮負先生は「何十枚も持って行って先生の机に置くと、2~3回見て『ダメだね』とおっしゃる。ある時、王鐸を書いて行ったら怒られ、『学生時代は唐以前のものをしっかりやりなさい』と指導された」。伊場先生は「学生時代に作品を持ってお稽古に行ったら、まじまじと僕の顔を見て『伊場君なあ、たまには酒を飲んで字を書いてみろや』と言われた。もっとおおらかに、気持ちを大きくということだと思うが、いつも頭の中に残っている」。飛田先生は「作品は書き出しの一画で決まるんだよ、と言われた。お稽古で直される時も、だいたい最初の三文字くらい。『打ち込みが弱いんだよ』と。覇気、やる気、気持ちの問題ということを教えられた」と、若き日に師から与えられた忘れがたい言葉を語りました。
浅見先生の書作について、飛田先生は「才能が満ちあふれていて、一本調子ではない。筆の遣い方も逆筆、直筆、側筆と、踊りを踊るような感じだった」と表現しました。宮負先生は「書表現をある時期、ある時期でガラッと変えている。唐以前の書で感覚を作り上げられていると思うが、最終的には若い時に師事した手島右卿先生が根底にあるのではないかと思う」と指摘。「ただ、器用なので王鐸や傅山を見るとパパっと表現できてしまう。ある時、(次々に変わっていく)浅見先生の書を追っていたらダメだと思い、宋の時代の字を書いて持って行くと、『僕は宋代はやっていないんだよ』と言われ、『ぜひやりなさい』と励まされた。それがいま書いている字のきっかけになったと思っている」と述べました。
伊場先生は印象に残っている「この一点」として、浅見先生の絶筆となった尾崎放哉の句「咳をしても一人」を挙げました。鳥取市に建てられる放哉の句碑の字を頼まれていた先生が、入院中のベッドで上向きのままメモ用紙に鉛筆でしたためた時の様子を回想し、「書かれている姿とともに印象深く残っている」と語りました。
座談会で何度も言及されたのは戦争体験。浅見先生は海軍飛行専修予備学生を志願して海軍航空隊に入り、特攻隊として出撃を待つ間に敗戦を迎えました。飛田先生は「戦争体験があるので人間的に強い。自分に対しても厳しかった」。小原先生は「先生の書を理解する上で忘れてはならないものは戦争体験。亡き戦友への鎮魂歌と、平和への祈りが作品の中に込められている」と語りました。
宮負先生は「ある時、寿司屋で飲んでいて遅くなり、『先生そろそろ帰りましょう。あしたがありますから』と言ったら『あしたなんかねえんだ』と怒られて、ああ特攻隊だなと思った。お酒を飲んでいて叱られたのはその一回だけですね」とエピソードを語りました。
座談会の最後は、千葉県立船橋高校で浅見先生から書を教わった6人が観客席から前に呼び出され、「ユーモアあふれる指導で、生徒一人一人にお手本を書いて下さった」などと思い出話を披露しました。
2019年10月8日(火)18:56