東京展ギャラリートーク 1 廣畑筑州先生

第34回読売書法展は東京・六本木の国立新美術館と上野の東京都美術館で開催中ですが、書法展の魅力、見どころを紹介するギャラリートークが始まりました。

初回の27日は廣畑筑州先生=写真中央、左向き=が登場。国立新美術館1階展示室で、師の青山杉雨先生の思い出話を交えて、書を見るポイント、書に取り組む考え方などをお話しされ、約100人の聴衆が熱心に耳を傾けました。

廣畑先生のトーク:

展示されている作品には見慣れない字や、意外な字があるかもしれません。古代にしか存在しなかったり、ある時代に諱字とされて他の字に置き換えられたり、という背景があります。書を見る際、漢字の歴史もポイントのひとつでしょう。

書は書く人そのものの表れだと思います。
時とともに自らの考え方も変わり、書も変わります。たとえば私は、若い頃は字形本位で選字をしていましたが、今は詩の意味を大事に考えるようになりました。最近は、杜甫、陶淵明に注目しています。生き方に惹かれるのです。

書のとらえ方は人それぞれで、それも変化するものです。
若い頃、師の青山杉雨先生から「陳鴻寿*に似ている」と言われたことがありました。 その時には陳鴻寿は変な字、味わいのない字という印象があり、自分はそのように見られているか、と落ち着かない気持ちで聞いていましたが、10年ほどたって改めて陳鴻寿の作品を見たら、何と魅力的な書だろう、と思いました。ですから、書を見て、解説を聞いた時に、すぐにわかったと思えなくても構わないと思います。わからなかったら、そのまま記憶の中で寝かせておいて、後から振り返って気がつけばよいでしょう。
青山先生には「いつまで同じものを書いているのだ。人生が惜しいと思わないか」と言われたこともあります。先生は私の性格をつかんで、同じことの繰り返しでは伸びないと思われたのでしょう。同じことをずっと続けて、青山先生もそれを見守った書家もいましたから、書は人に即したもの、ということだと思います。

書のよしあしは、突き詰めると、誠実かどうかということだろうと思います。

自分の生き方に即して「今、書いた」ということが伝わる書がいいと思っています。苦しい鍛錬を避けてある決まった型に安住し、そのうち自分で飽きてしまってデフォルメをする、という例もありますが、これでは生きた書にはならず、つまらないと思います。そういう時は古典に戻ると良いのではないでしょうか。書き込んでいくと心にゆとりが出来るものです。作為が昇華されると思います。

*中国・ 清時代の書家、画家、篆刻家

28日も午後2時から国立新美術館1階展示室で、高木厚人先生がギャラリートークを行われます。

 

2017年8月28日(月)10:41